神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

ワキヤ書房の脇清吉とイスクラ書房の黒木重徳

ワキヤ書房の脇清吉」で言及した脇は古本界では無名の人であるが、近代デザイン史、広告史では有名な人であった。ユクノキさんには徳冨蘆花家で下男をしていた時に盗写した森近運平の獄中書簡を収録した『三十八年めの告白』の著者として知られているかもしれない。『碑ーー脇清吉の人と生活ーー』(脇清吉の碑をつくる会、昭和42年)に詳しい年譜が載っているので、古本屋歴を中心に要約すると、

明治35年 北海道増毛生
大正10年 武者小路実篤新しき村へ行き、生活
昭和3年 徳冨蘆花没後の愛子夫人宅に下男として住み込む。
昭和6年 河原町に京都名物詩といわれた夜店開店の仲間入り。
昭和8年 出町柳に友人と共営の古書店開業、かたわら夜店に出る。
昭和9年 京都高等工芸学校正門前に転居。古本店を開く。
昭和11年 「智恵を盗む会」という修養会の世話役になり、武林無想庵辻潤との交際をもつ。
昭和12年1月 『プレスアルト』誌を発行
昭和14年 高等工芸学校前より西桜木町に移転

昭和19年 京都より浜松三方原聖隷保養園に移転 

昭和24年 神戸市内に転入
昭和39年1月 『三十八年めの告白』を100部作成
昭和41年4月 没 

同書の遠藤健一「「新しき村」人種」には黒木重徳が出てくるので、これも紹介しておこう。なお、黒木については、「東京予防拘禁所旧蔵、岡崎文規『印度の民俗と生活』」や「京都共生閣の創立者田村敬男」を参照されたい。

昭和のはじめ京都に黒木重徳という古本屋があった。高校のときの同級生で、三年のとき、「新しき村」からさらにマルクス主義を信ずるようになった私は彼にさかんにマルクス主義を説いた。(略)その彼が私の知らないうちに共産党員になり、カモフラージュで古本屋をしていた、というのである。(略)
この話を、なんかの拍子にすると脇君は、古本屋時代の黒木と親しくしていた、いい男でした、と、そのときの話をいろいろ聞かせてくれた。(略)

『プレスアルト』誌は広告印刷物などの実物付きの見本・批評誌であった。昨年も大阪の江之子島文化芸術創造センターで「『プレスアルト』誌と戦後関西の広告」という展覧会やシンポジウムが開催されるなど、同誌発行人としての脇については、かなり詳しく研究が進んでいる。しかし、古書店主としての脇についてはまだまだ不明な点が多いので情報を集めていきたい。

善行さんの「古本ソムリエの日記」が再開されました(^_^)

はてなダイアリーの更新ができなくなり、山本善行さんのブログ「古本ソムリエの日記」の更新が止まっていましたが、はてなブログの方で再開されました。ただし、まだ試行錯誤されているようではてなダイアリーの過去の記事の移行はされていません。
「古本ソムリエの日記」→https://zenkoh.hatenablog.com/

ガーーン、はてなダイアリー更新最終日だった

うかうかしてたら、今日ではてなダイアリーの更新ができるのが最後になるらしい。また、はてなブログの方で再会できるでせう。一度、はてなブログの方にデータを移したけど使い慣れたこっちの方で更新を続けちゃったからどうなるのかなあ(´・_・`)

「上州・大逆事件の歌人」を執筆中の伊藤信吉と蒼馬社の中村泰

昭和53年4月伊藤信吉は『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)全15巻の編集刊行を終えた。そして翌54年6月から『短歌』に「上州・大逆事件歌人」の連載を始める*1。この時期に蒼馬社の中村泰宛に送った葉書がある。全大阪古書ブックフェアで池崎書店から購入。昭和54年9月25日付けの消印で、次のようなことが書かれている。

政治と文学。蒼馬。(略)今日、封を切り、堀さんの武田麟太郎、中村さんの崎久保誓一をまずよみました。(略)

そして、「崎久保」の横から赤線を引き、余白に「(大逆)事件の上州(群馬)余波について小文を書きつつあるので、親しく思いました」と追記している。この「小文」が『短歌』連載中の「上州・大逆事件歌人」のことだろう。崎久保は大逆事件連座したジャーナリストなので、伊藤の関心を引いたのだろう。なお、伊藤と中村の関係は不詳だが、以前から交流があったと思われる。
『政治と文学』は、小島輝正『関西地下文脈』によれば、昭和52年3月に発足した「政治と文学の会」の機関誌で、54年9月創刊。同会は、『大阪派』の旧同人須藤和光、中川隆永、堀鋭之助らの先輩に、若い戦後活動組の近藤計三や中村らを加えて10名で発足したという。伊藤に贈られたと思われる創刊号には岩田馨「島木健作・作品原モデル論」*2と田島静香「同人雑誌『啄木研究』総目次」掲載。日本近代文学館が3号(昭和57年8月)まで所蔵。一方、伊藤に贈られた『蒼馬』は何号か不明で、4号は53年12月発行、5号はどこにも残っていなくて発行されたのか、発行されたとすればいつなのか不明である。
(参考)「富士正晴や谷沢永一が感心した蒼馬社の中村泰が書いた「大都映画の話」

伊藤信吉著作集 (第7巻)

伊藤信吉著作集 (第7巻)

*1:『伊藤信吉著作集』7巻(沖積舎、平成15年10月)の「年譜・書誌」による。

*2:谷沢永一『方法論論争』(和泉書院、平成7年9月)の「大久保典夫を嗤う」で岩田のこの論考に言及している。

第2次『働く人の詩』の発行人としての中村泰

先日話題にした蒼馬社の中村泰だが、うっかりしてたが全大阪古書ブックフェアで同じく池崎書店から買った第2次『働く人の詩』(働く人の詩社)の編輯兼発行人でした。『『山河』解題・回想・解説・総目次・執筆者索引』(三人社、平成28年2月)の宇野田尚哉「別巻「戦後大阪詩運動資料」解説ーー須藤和光に触れながらーー」によると、

一九五一年、同欄(『夕刊新大阪』の「働く人の詩」欄ーー引用者注)のある常連投稿者が、黒崎貞次(ママ)郎に、『働く人の詩』が顧みられなくなっている現状を嘆き、ガリ版でもいいから復刊したいという思いを伝える長文の手紙を書き送った。その常連投稿者とは、一九四〇年代後半に西大阪工場地帯の日新化学(のちの住友化学)でブルーカラー労働者として働いていた頃に労働組合機関誌などに詩を書き始め、病気療養を経てホワイトカラー労働者となったのちには個人誌の発行も始めていた中村泰(一九二七〜)である。中村の手紙で動かされた黒崎は、足立(足立巻一ーー引用者注)に協力するよう指示し、ここに第二次『働く人の詩』が創刊されることとなった。(略)

第2次『働く人の詩』は昭和26年9月創刊で、4号(27年4月)まで発行された。私は3号(同年2月)と4号を入手したのだが、「鬼ぽん」こと「ゆずぽん」さんも同時に池崎書店から3号を入手していて、旧蔵者は2冊も持っていたのかと不思議に思っていたが、発行人自身の旧蔵であった。
(参考)「富士正晴や谷沢永一が感心した蒼馬社の中村泰が書いた「大都映画の話」

山河復刻版第2回配本(第3巻+別巻+別冊セット)

山河復刻版第2回配本(第3巻+別巻+別冊セット)

戦前の西宮で創立された蒐集家ネットワーク「西宮雅楽多宗」

平成27年7月から8月にかけて西宮郷土資料館で「阪神沿線ごあんないーー西宮の郊外生活ーー」展が開催された。ここで驚いたのは、三田平凡寺の我楽他宗の西宮版とも言うべき趣味人のネットワーク西宮雅楽多宗に関する展示であった。当然図録を買ったのだが、残念ながら西宮雅楽多宗に関する記述は掲載されていなかった。その後、須崎愼一「戦後意識を探るーー西宮雅楽多宗・ハガキ通信を手がかりにーー」『日本文化論年報』9号(神戸大学国際文化学部日本文化論大講座、平成18年3月)を見つけて、詳細が分かった。西宮雅楽多宗は昭和5年*15月5日創立。阪神間の蒐集趣味家を主体とし、変人、哲人、野人、奇人、雅人を網羅した文化団体だったという。戦後の名簿と思われるが、「西宮雅楽多宗一覧」として33名の氏名、主なる趣味と収集品がまとめられているので、一部を引用しておこう。

高山岩三郎 戎さんに関するもの
音馬福蔵
浅田柳一 燕に因んだもの、木版絵暦
矢野倉蔵
多喜幸三郎
小田龍三
小松原無庵
長尾善三 虎に関するもの、木版絵葉書
松井蛙聲
勝部正造
石原栖史
山川黙音
丸山松蔵 趣味品一式何でも来い
西田一光
細田閑公 大供玩具、趣味の紙屑
小林好燐  ゑはがき、燐票
武村光起
藤井千鼠庵 鼠に関するもの
永井清司 自筆の絵画、手拭、鏡、鈴
辻繁 諸国名物レッテル
松本丙午楼
松井晩翠
阿部四郎 げてもの、おもちゃ
難波正寛
頭井豊樹
葛山磐夫 屑と反古類一式
今井賛之助
服部衣山人 郵趣品、新聞題字、煙草関係
得永幸作
阪口砂山
今井孫一郎
中川京二
宮本圓心

池田市の長尾と大阪府南河内郡国分町の阿部を除き、兵庫県内で、西宮市が11名、神戸市と尼崎市が各8名、芦屋市が3名、明石市が1名である。全然知らない人ばかりだが、ぬりえ屋さん(熊本の古書店)や書物蔵さんらが作成しつつある趣味人名簿にあがっているだろうか。須崎氏によれば、高山は昭和25年10月没で若い時は国民党の「党(ママ)士」として花々しく政治活動をしていたという。
さて、西宮雅楽多宗については、ネットで読める山内英正「「西宮雅楽多宗」の人々(一)戦前編ーー趣味人ネットワークの成立と展開ーー」がより詳しいので、そちらもぜひ見られたい。永井は西宮の菓子店「大半」の店主、浅田は本名耕一郎、西宮の浅田印刷所の長男に生まれ、新聞記者になったという。また、山内氏が関心を持つに至ったきっかけは、京都の「書林かみかわ」から入手した西宮雅楽多宗関係の古写真だったという。かみかわさん、いいもの持ってるなあ。

*1:山内英正氏が大正5年と昭和5年の両方を記しているが、昭和5年が正しいと思われる。

富士正晴や谷沢永一が感心した蒼馬社の中村泰が書いた「大都映画の話」

先月の全大阪古書ブックフェアでは池崎書店が蒼馬社(大阪市)の中村泰宛書簡等を出品していて、幾つか購入した。今回紹介するのは、昭和50年4月25日付け富士正晴の葉書である。文面は、『蒼馬』3号送付への御礼で、「大都映画の話」が興味深く、「面白い人がまだまだ世に残っているものですな」と感想を述べている。当時富士は62歳で、この年の5月に『富士正晴詩集』(五月書房)を出している。
中村の経歴は不明だが、小島輝正『関西地下文脈』(葦書房、平成元年1月)によれば、昭和2年生まれ。『蒼馬』は昭和37年8月(ママ。正しくは、昭和38年7月)創刊、以後2号(39年12月)、3号(50年4月)、4号(53年12月)が刊行されている。4号の「聞き書き・大阪プロレタリア文学史(1)」は、『独創』の堀鋭之助を加えて、近藤計三、中村の3人が作家同盟大阪支部長を一時期務めた田木繁を訪ねた聞き書きだという。近藤計三については、「近藤計三の詩誌『狙撃兵』をめぐる足立巻一のやちまた」を参照されたい。
『蒼馬』3号に中村が書いた「大都映画の話」だが、これについては谷沢永一も評価していた。『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋、平成17年12月)の「映画史の襞にわけいって」に次のようにある。

小学校を出たころ「薩南大評定」や「隠密縁起」に夢中であった感銘を忘れぬ中村泰は、当時の監督、小崎政房を訪ねて詳細な聞き書き大都映画の話」を作成、参考文献を渉猟した注を加え、個人雑誌『蒼馬』(略)第三号に掲載している。
(略)映画人、軽演劇人の貴重な証言をひきだした中村泰の熱意に脱帽。

小崎政房(おざき・まさふさ)はまったく知らなかったが、明治40年京都市生まれの映画監督、演出家らしい。富士や谷沢が感心した「大都映画の話」が載った『蒼馬』3号は国会図書館が所蔵しているので、読んでみたいものである。
追記:『富士正晴資料目録:富士正晴記念館所蔵』4書簡(富士正晴宛)編下巻(富士正晴記念館、平成7年3月)に中村からの昭和39年1月4日付け年賀状、54年5月5日付け封書が掲載されている。

紙つぶて―自作自注最終版

紙つぶて―自作自注最終版