神保町系オタオタ日記

自称「人間グーグル」

戦時下における京都の青少年の娯楽ーー麻田鷹司の京都市立美術工藝学校時代の日記からーー

京都市立美術工藝学校の生徒だった麻田鷹司の日記については、「京都古書組合のムードメーカーだった若林春和堂の若林正治」で紹介したところである。『麻田鷹司ーー京都市立美術工藝学校時代の日記ーー』(麻田光子、平成12年4月)には、昭和16年4月から19年7月までの日記と20年2月から同年3月までの日記が収録されている。今回は、その日記から麻田が行った展覧会や映画を拾うことにより戦時下の京都における若者の娯楽を見てみる。

(昭和16年)
5月15日 「市展」(京都市立美術館)
同月25日 『潜水艦一号』千本座
6月1日 「麻田弁次氏新作画展」大丸
同月8日 「東丘展」(京都市立)美術館
同月21日 『勝利の歴史』弥栄会館
7月1日 「滑空機展覧会」丸物
同月13日ニュース館
同月31日 ニュース館
8月1日 『ポパイの大平原』朝日会館・・・「漫画」とあるのでアニメか。
同月5日 ニュース館
9月14日 『若い科学者』文映・・・エジソンの少年時代の物語
同月20日石清水八幡宮資料展観」(帝国京都)博物館
同月28日 「聖戦美術展」(大阪市立)美術館、「青龍社の展覧会」梅田の阪急百貨店
10月3日 『人間エヂソン』松竹座
同月11日 「院展」(京都市立)美術館
同月18日 「全日本少年少女発明工夫製作品展覧会」丸物
同月26日 『弥次喜多道中記』千本座
11月1日 「第九回京都府女子中等学校美術展」丸物
同月2日 『大和』試写会、朝日会館
12月6日 「文展」(京都市立)美術館
同月23日 『戦車』ニュース館
同月30日 ニュース館
昭和17年
1月2日 『ハワイ海戦の映画』ニュース館
同月4日 『武蔵坊弁慶西陣キネマ
同月7日 「大東亜戦争の写真展覧会」大丸、『F・P・一号応答なし』文映
同月24日 「最新発明展覧会」丸物
3月1日 「大東亜戦争展」丸物、「大東亜戦争展」大丸、「大東亜戦争展」藤井大丸
同月13日 「(京都市立美術工藝学校)校友会作品展」(京都市立)美術館、『遺志の勝利』京都座
同月18日 『将軍と参謀と兵』千本座
同月25日 『ニュース』長久座
同月26日 『宮本武蔵一乗寺決闘』千本座
4月24日 「必勝祈念展」丸物
5月1日 「市展」(京都市立)美術館
6月5日 「米機の残骸の展覧会」勧業館、「無敵海軍展」大丸
同月13日 「泰西古画展」(京都市立)美術館
同月20日 『朝やけ』階上映画館
8月1日 『明治神宮』・『機関車C57』ニュース館
同月30日 『マレー戦記』京宝
9月19日 『ビルマ戦記』・『北の護り』京宝
10月6日 「院展」(京都市立美術館)
同月31日 「桃山美術と豊太閤」(帝国京都)博物館
12月5日 「文展」(京都市立美術館)
同月6日 『東洋の凱歌』松竹座
同月19日 『ハワイ・マレー沖海戦』千本座
同月28日 『成吉思汗』特別試写会、朝日会館
(昭和18年)
1月22日 「大東亜戦争美術展」(大阪市立)美術館
2月27日 「梅原龍三郎作品展」(京都市立)美術館
3月6日 『陸軍航空戦記』京映
同月20日 「陸海軍献納画展」(京都市立)美術館
同月27日 『桃太郎の海鷲』・『戦ふ、護送船団』松竹座
5月1日 「市展」(京都市立)美術館
同月2日 『シンガポール総攻撃』松竹座
同月29日 「海軍献納画展」(京都市立)美術館
同月30日 『海軍戦記』松竹座
6月19日 「ユダヤと秘密結社展」丸物
同月27日 「勝田先生の南方素描展」・「京都在住洋画家滞欧作画展」(京都市立)美術館
7月1日 『室生寺』・『法隆寺』日本文化講座上代編、朝日会館
8月9日 『急降下爆撃隊』松竹座
9月5日 『世界に告ぐ』京宝
同月17日 『愛機南へ飛ぶ』松竹座
同月27日 『決戦の大空へ』松竹座
10月24日 「速水御舟作品展」(京都市立)美術館
同月30日 「山城物刀剣特別展観」(帝国京都)博物館
12月1日 「文展」(京都市立)美術館
同月2日 『海軍』特別発表会 松竹座
同月22日 「決戦美術展覧会」大丸
(昭和19年)
1月23日 「アメリカ映画に於けるユダヤ思想謀略展」大丸、『空の神兵』ニュース館
2月5日 『東大寺』・『興福寺』・『日本ニュース』・『ホーネット撃沈日本ニュース』朝日会館第二回日本文化講座
2月19日 『勲功十字章』京宝
4月6日 「航空機の機密」大丸
4月8日 『偉大なる王者』松竹座
6月4日 「陸軍美術展」(京都市立)美術館・・・半時間余り待って入ったが、美術館開館以来かと思われる人出でゆっくり観る気もしないので、後日改めて来ることにした。
6月7日 同上
同月25日 『轟沈』弥栄会館
(昭和20年)
2月24日 『海の薔薇』松竹座
3月1日 「戦時特別美術展」(京都市立)美術館
同月7日 『ニュース映画』新聞会館

展覧会に頻繁に行っているのは、麻田が絵画科の生徒であり、また父親弁次が日本画家なので当然のことで、当時の一般の若者に比べれば多いのであろう。昭和18年6月19日の「ユダヤと秘密結社展」が気になるところで、麻田は「ユダヤの陰謀の恐ろしさが、よくわかった」と書いている。
映画も頻繁に観ているが、当時の若者はこんなものか。ただ、試写会は父親のつてかもしれない。時局柄戦争関係のものが多い。ニュース館というのは、ニュース映画ばかり上映したのか。九段下の昭和館に行くと、戦前のニュース映画が見られるね。
茶店がさっぱり出てこないのは残念。戦時下の京都における喫茶店はどういう状況にあったのだろうか。ただし、17年5月15日四条の不二屋[ママ]でココアを飲んだり、同年8月12日旅行先の長野県菅平の白樺荘でコーヒーを飲んでいる。
日記によれば、展覧会、映画の他に娯楽としては、海水浴、花見、蛍取り、祇園祭京都市紀念動物園などが記されている。戦時下といっても、真っ暗闇な青春ではなかったわけだ。戦局が特に悪化した昭和20年の日記は虚弱体質の生徒だけが集められた健民修練所における2月9日から3月9日までの分しか残っていないので、展覧会や映画がどういう状況だったかがわからないのは惜しい。
なお、8月19日まで何必館京都現代美術館で「現代風景画の指標 麻田鷹司展」を開催中。

洲之内徹と気まぐれな同人仲間

先日紹介した『四国文化』1輯(四国文化社、昭和18年9月)の「感想時評」に出てくる『四国文学』は、戦前洲之内徹が同人だった『記録』を改題したもの*1でした。「感想時評」を引用すると、

光田稔の四国文学はどうなつたのか、その後の音信にふれてゐないので分らないが、村上栄子の消息も分らない。光田さんにも、可愛いゝ子飼ひの同人だつたし、書ける人としての友達だつた。放送作品を書いてゐる水城葉子と、彼女とが寄つて語ると、村上栄子は、一番家庭的で静かだつた。私は自分の身辺の私小説しか書けませんとよく云つてゐたが、どうしてゐるか。
長坂一雄氏も四国文学の書き手だつた。この人の確実な筆にのつた作品がほしかつたが、一足先に文藝主潮の同人になつたとの親切な返信に、これらの同人をかかへた光田さんも、どうして[ゐる]か、その後の消息が知りたい。

『記録』(『四国文学』)*2を発行した光田や同人の村上は洲之内の小説「雨台風」*3でモデルとして使われている。光田は「私」が戦前治安維持法違反で検挙され、東京の学校を除名されて松山へ帰って来た時に知り合ったA新聞松山支局の記者でプロレタリア作家同盟の支部責任者である「水田」として登場する。水田の指導している電話局の文学サークルのフラク(党員)で美人の「村井なつ子」のモデルが村上である(『洲之内徹文学集成』(月曜社、平成20年6月)の「解説ノート」による)。「私」は再度検挙されるが執行猶予で出てきて、地方新聞の記者になっていた水田やなつ子らと松山で同人雑誌を出すことになる。誌名は出てこないが、これが昭和11年8月創刊の『記録』ということになる。なつ子は大阪の兄を頼り松山を離れた後も、短編を同誌に書き、「なっちゃんの短編を集めて、日活の多摩川撮影所で映画化する計画」もあったという。「感想時評」によると村上は「私小説しか書けません」と言っていたらしいが、見るべきものがある私小説だったのだろう。「私」が戦後中国から引き揚げて松山で貸本屋を始めると水田やなっちゃんも訪ねて来たという。この辺りもおそらく事実で、洲之内の没後刊行された『洲之内徹君の思い出』(白の会、昭和63年)の光田「風に吹かれて」や村上「治安維持法と青春の仲間たち」を見ればわかるかもしれないが、未見である。
長坂については、洲之内は「性格と心理 長坂一雄論」*4を書いている。洲之内は『記録』同人では長坂についてのみ評論を残しているという。また、「作品ノート2」*5には「長坂一雄という素晴らしく小説の巧い男がいて、年は私より一つ下だった」とある。小説の書き方を教えてもらおうと思い、彼に頼んで「水上氏と川成」という短編小説を合作している。洲之内は戦後、これを「女難」*6という作品に書き直した。「解説ノート」によれば、本名相原重容。戦争末期に召集され、南京の野戦病院で戦病死したという。大原富枝『彼もまた神の愛でし子か 洲之内徹の生涯』(ウェッジ文庫、平成20年8月)には、「『記録』の中では一番良い作品を書いていた、非常に心のやさしい、大人っぽい落ち着いた青年であった」とある。『記録』には小説を書かず、もっぱら文藝評論じみたものばかり書いていた洲之内だが、戦後は小説を書き三度芥川賞候補となる。長坂が生きていれば、同人仲間として、小説家の先輩としてどういう感想を持っただろうか。
(参考)「戦時下の雑誌統廃合が進む中でも創刊された同人雑誌『四国文化』」

彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

彼もまた神の愛でし子か―洲之内徹の生涯 (ウェッジ文庫)

*1:大原著によると、同人雑誌『記録』は、昭和13年洲之内が軍属として北支へ渡ることになった時の号から『四国文学』と改題された。

*2:入手困難なようで、あきつ書店が「日本の古本屋」で『四国文学』2巻2号、昭和16年に5011円付けている。

*3:『文脈』16号、昭和32年1月

*4:『記録』9号、昭和13年7月か。

*5:洲之内徹小説全集』2巻(東京白川書院、昭和58年12月)

*6:『文脈』8号、昭和29年10月

『近代大阪』の北尾鐐之助と青塔社の池田遙邨

寸葉会で拾った西宮市北昭和町の北尾鐐之助宛池田遙邨の葉書。
北尾の著書は時々古書展で見かけるが買ったことはない。『日本の写真家』(日外アソシエーツ、平成17年11月)から北尾の経歴を要約すると、

明治17年3月9日名古屋市
東京高商(現・一橋大学)中退
毎日新聞社に入社し、『サンデー毎日』『ホームライフ』編集長などを歴任。『サンデー毎日』では表紙写真を手がけ、PR映画『新聞時代』ではメガホンをとるなど、印刷、写真、映画など幅広い分野でモダンな感性を発揮、グラフィック・デザイン史に大きな足跡を残した。
定年退職後は著述に専念。昭和29年兵庫県文化賞を受賞。主著『日本山岳巡礼』『国立公園紀行』『近畿景観』『近代大阪』『あめりか写真紀行』ほか。
昭和45年9月6日 没

より詳しくは、『復刻版近代大阪』(創元社、平成元年3月)の海野弘解説「モダン・シティ大阪の漫歩者」にある。それによれば、明治45年(大正元年)大阪毎日新聞社入社、新聞記者として活動しながら山を歩き、『山岳夜話』『山岳巡礼』などを刊行。大正11年サンデー毎日』創刊に参加、大正15年(昭和元年)編集長。大正13年『芝居とキネマ』を創刊し、昭和4年まで出している。
また、「写真部の組織と活動」を執筆した『綜合ヂャーナリズム講座』第1巻(内外社、昭和5年10月)の「講師略伝」では、入社年が海野氏の解説とは異なるが、大正2年大阪毎日新聞社に社会部外勤として入社し、編輯から福岡支局長、写真場長、学藝課長を経て写真撮影係主任に昇級。大正13年新写真研究のため米国へ渡航したことや、神戸市上筒井通りに住んでいることが書かれている。
入手した葉書だが、消印は(昭和)39年6月7日付け、裏面は6月10日から14日まで京都市美術館で開催の第9回青塔社展の案内である。「青塔社」は昭和28年3月に結成された池田が主宰する画塾。北尾と池田の関係は残念ながら不明で、今後の課題である。なお、寸葉会に葉書が1枚出たということは他にも古書市場に北尾旧蔵の物が放出されたはずだが、見つけていない。

『時代を駆ける:吉田得子日記1907-1945』(みずのわ出版)に大本教ネタ

女性の日記から学ぶ会編『時代を駆ける:吉田得子日記1907-1945』(みずのわ出版、2012年6月)は続編の戦後編が刊行された。どちらも装幀は林哲夫氏。とりあえず戦前編の方を読んでみると、宗教関係のネタが。

(大正9年)
6月9日(水)晴
(略)業後早くかへり居たりしに父兄と話し居たりし折から妹来り大本教の本を持ち来りくれたり。親の恩をしみじみ思ひて泣きながらかへる。
6月20日(日)半晴
(略)生活改善博覧会*1および太霊堂へ行かれし旦那様暮方かへらる。『主婦之友』発売禁止*2になりたる由。
6月30日(水)晴
(略)大本様祭りてのりとを上ぐ。
7月14日(水)晴
(略)大森書店より書物持ち来り、大本教の本を読む。(略)
(昭和6年)
6月13日(土)晴
(略)夕方、正ちゃんと京都の姉さん[夫関治の兄・益治の妻]ゆくりなくも来らる。心療法*してもらふ。(略)
*編者註:平田式心療法のこと。昭和初期に平田内蔵吉が考案したもので、鍼と灸の刺激を同時に与えることのできる「心両[ママ]器」を使って行う刺激療法『平田式心療法』はベストセラーに。

[ ]内は編者による註記。得子は明治24年岡山県邑久郡本庄村生、42年西大寺高等女学校卒業、45年吉田関治と結婚。大正9年時は邑久尋常小学校勤務。昭和5年夫と吉田ラジオ店開業。大正9年というと大本も太霊道ブイブイ言わせていた時期であるが、日記中の「太霊堂」が太霊道の誤植かは不明。得子の夫関治の経歴についても記載が欲しいところである。ちなみに、太霊道が出てくる日記は、拙ブログの「三村竹清が太霊道ブームに喝!」「ねらわれた学院」「酒井温理と太霊道の時代」「植物学者田代善太郎、霊道をなし得たり」などで紹介したところである。
得子の日記は編者により取捨選択されていて全部は本書に収録されていないが、公開された部分を読む限りは、得子は大本教に深入りしてはいなそうである。と思ったのだが、本書の「吉田得子日記から拾う旅行記録(主なもの)」を見たら、大正9年6月に綾部の大本教本部へ旅行していることがわかった。私にとって大事な箇所が、収録された日記には省略されているなあ。なお、7月21日(土)京大人文研で「新宗教史像を再構築する」第一回公開研究会として「鎮魂帰神法と大本教、再考」が開催されるらしい。→https://jnaseblog.wordpress.com/

*1:ママ。小山静子『家庭の生成と女性の国民化』(勁草書房、平成11年10月)及び『日本社会事業年鑑大正拾年』(大原社会問題研究所出版部、大正10年6月)によれば、「生活改善展覧会」は大正8年11月30日から9年2月1日まで文部省主催により東京教育博物館で開催。その後、愛知県、大阪府愛媛県山口県香川県徳島県熊本県長崎県、福岡県で開催された。

*2:斎藤昌三編『現代筆禍文献大年表』(粋古堂書店、昭和7年11月)によると、『主婦之友』大正9年7月号が「処女の誇を失ふて結婚した女の煩悶」の風俗壊乱により発禁。

米浪庄弌の『こけしだより』を積ん読本から掘り出す

何やら水害の危機が迫りつつあるようなので、一階の居間に積ん読だった本を二階へ避難させた。おかげで、色々埋もれていた本を発見。『こけしだより』2輯(おけしゑん米浪庄弌、昭和14年)は、ツイン21の古本市で「ぶんざい」出品、300円。値札シールに「ぶんざい」とあるが、関西大学前の文砦なのだろう。
150部限定、8頁の小冊子。こけしには興味がないが、関西こけし会同人として、

青山一歩 大阪市旭区
岸本彩星 大阪西区
佐野三壺 大阪市住吉区
西田静波 大阪市東区
村松百兎庵 大阪市住吉区
梅谷紫翠 大阪市西成区
米浪庄弌 兵庫県川辺郡立花村

があがっていて、西田、村松、梅谷は趣味人の絵葉書でよく見かける名前なので購入。
内容は、「こけし人形百人一蒐展目録」(昭和15年1月4日から11日まで大阪日本橋松坂屋)、「中山平に大沼岩蔵老を訪ねて」、「こけしだより」、「第三回関西こけし会案内」(昭和15年1月7日天王寺公園南門池の畔小宝)。二番目のは、米浪が鳴子温泉中山平に大沼岩蔵(65歳)の弟子秋山忠の案内で大沼を訪問した記録で、大沼の家の前で撮った米浪、大沼、秋山の写真が張り付けてある。検索すると、こけしゑん(こけし園)の米浪は著名なこけしのコレクターのようだ。

戦時下の雑誌統廃合が進む中でも創刊された同人雑誌『四国文化』

何やら大雨でブログをアップしてる場合ではないような気もするが、本が使えるうちに書いておこう。
富士正晴野間宏・桑原静雄により昭和7年10月創刊された同人雑誌『三人』は戦時下の昭和17年6月廃刊された。その経緯は富士の「同人雑誌『三人』について」によれば、

廃刊となったのはその頃、同人雑誌を統合することを政府から強制されたからで、「朱緯」の荒木利夫には『三人』と「朱緯」とを軸として二、三の同人雑誌も加えて一つの詩雑誌となろうとすすめられたのを断って廃止にふみ切ったのであった。(略)色々の傾向の同人雑誌が一つに強制的に固められることは耐え難かったし、不純粋なような気がわたしにはしたのだった。(略)もう一つ、日本出版文化協会*1として、いろいろ繁瑣な届書を出すのにも閉口していたということもあるように記憶する。

この例のように戦時下における雑誌の出版状況としては、とかく廃刊にばかり注目してしまう。たとえば、福島鋳郎編著『戦後雑誌発掘ーー焦土時代の精神ーー』(日本エディタースクール出版部、昭和47年8月)に「主要廃刊雑誌一覧(昭和十九年九月現在)」や「企業整備後の残存主要一般雑誌一覧(昭和十九年十月一日現在)」は載っているが、創刊雑誌一覧なんてのはない。しかし、『雑誌・創刊号蔵書目録<慶応ーー昭和>』(大塚文庫、昭和61年7月)によれば、昭和17年から19年までの間に内地では90冊ほど雑誌が創刊されていることがわかる。何年か前に入手した『四国文化』第1輯(四国文化社、昭和18年9月)という51頁の非売品の雑誌も戦時下に創刊された同人雑誌である。編輯兼発行者は香川県三豊郡観音寺町の原肇。目次の一部をあげると、

撃ちてし止まむ 池田哲
ヒマの種をまく 西口藤助
詩 二章 志邨節
烏賊の釣れる頃 塩谷安郎
桃咲く日 橋本史芳
生れて来る子供よ 山下道子
盡忠の血 木村松次郎
誘蛾燈 恩地淳一
野蛮人 松村嘉雄
家庭 二木洋子
二つの手紙 大塚雪郎 池田哲
感想時評
夏花 奈良本角三
お麗さん 南條秀子
浄罪の門 原肇
編輯後記

知らない人ばかりで、『日本近代文学大事典』の索引で見ても木村松次郎が載ってるだけである。同事典第5巻には短歌雑誌『蒼生』を昭和15年12月に白秋系の筏井嘉一とともに創刊した一人として木村の名前が挙がっているのだが、『四国文化』に短歌を載せた木村と同一人物かは不明である。
各地の同人雑誌と交流があったようで、「感想時評」では、九州文学の篠原二郎、四国文学の光田稔・村上栄子・長坂一雄、大阪詩人の廃刊、関西文学の志賀白鷹、現代詩人社の並河嘉一、大阪文化の会に言及している。
地方の用紙状況によっては本誌のように同人雑誌を創刊できたのだろう。ただ、「編輯後記」に「香川県文学報国会理事志邨節氏の御親切なる御指導を賜り、印刷所のことから何から何まで御世話になりまして刊行出来た次第」とあり、やはりコネがないと戦時下の同人雑誌発行は難しかったのだろう。

*1:同人雑誌だが、発行所の三人発行所は日本出版文化協会に入っていたことになる。

富士正晴らに同人雑誌『三人』の発行を認めた第三高等学校教授平田元吉

第三高等学校教授で志賀直哉の英語の家庭教師だった平田元吉は、富士正晴野間宏・桑原静雄(竹之内静雄)が発行した同人雑誌『三人』とも縁があった。富士の「同人雑誌『三人』成立」によると、

[昭和七年]五月一日、記念祭のとき、文三乙がやったゲーテ展会場で(略)平田元吉という生徒主事と話す。この人は志賀直哉の中学生時代の英語の家庭教師であった人だ。「このごろの志賀君の顔はますますゲーテに似て来た」などと彼はなつかしがった。(略)五月十七日、わたしははじめて桑原静雄を知り野間、桑原を竹内勝太郎のもとへつれて行って紹介した。
(略)九月十八日(略)下河原町の林久男(ゲーテ学者で当時三高文芸部長)をたずねて行った。(略)林久男は文芸部にちゃんと嶽水会雑誌というものがあるのに、何も別に同人雑誌を作る必要はない筈だと反対した。(略)結局生徒主事さえ認めるならということになった(略)一旦学校へひきかえして生徒主事の長の平田元吉の所をきき、下鴨宮河町の彼の家へ出かけて行った。(略)円顔で、小柄で、訛のある朴訥な話し方をするこの人には一種の俗気のなさがあった。(略)それはいいことだと彼は賛成し、出来上ったら一部ほしいと言っただけだった。(略)しまいには自分の祖父の詩を見せて説明さえし、わたしたちは大変気をよくして引き上げた。(略)

生徒主事の平田が反対すれば、『三人』の発行はできないところだったわけだ。この富士らのピンチを救った平田の略歴だが、数年前天神さんの古本まつりで厚生書店の雑誌1冊100円コーナーで拾った『会報』14号(三高同窓会、昭和17年10月)に載っていた。「故人を偲ぶ」という記事*1で、足立謙吉、市村恵吾、八木清之助、稲城峰晃、瀧浦文弥、河田嗣郎、内田新也らとともに略歴と写真が掲載されている。

明治7年4月5日 生
34年7月 東京帝国大学文科大学哲学科卒業
39年12月 第三高等学校独逸語科講師ヲ嘱託ス
40年4月 任第三高等学校教授
昭和2年3月 補第三高等学校生徒監
3年12月 兼任第三高等学校生徒主事
5年6月 免本官専任第三高等学校生徒主事
同月 兼任第三高等学校教授
10年12月 任第三高等学校教授
同月 兼任第三高等学校生徒主事
13年4月 依願免本官並兼官
同月 本校独逸語科講師嘱託ス
17年1月22日 逝去

平田はWikipediaにも立項されていないのでネット上に略歴を挙げておけば誰かの役に立つだろう。なお、この年譜では昭和7年当時平田が生徒主事とは確認できないが、『第三高等学校一覧』(第三高等学校昭和7年8月)で生徒主事だったことがわかる。
また、前掲会報には平田の長女八重子の夫である久志卓真の「平田元吉の素描」も掲載されている。それによれば、
明治12年7月父を失い、9月母を失い、7歳にして、姉、妹、平田の三人が残され、叔母岩子に扶養された。
島津藩[ママ]のお姫様附の儒官の家柄として代々学を業とし、父は造士官[ママ]の教官を務めた。
・中学さえ行けず、独学で札幌農学校に入ったが、それは姉婿堀宗人が先に開拓使次官、後の炭鉱汽船社長堀基の下に力を振いつつあったのを頼って渡道したことに由来する。
・その後意を決して上京、一高の試験を受けてパス。一高だけは何とか苦学でぶっ通したが、大学は幾度か止めようとして、それを鞭撻して苦学を続けさせたのが岩元禎であった。大学を卒業するのに5年を要した。
明治40年京大教授榊亮三郎の推薦で三高の教授になった。
・亡くなる2ヶ月前、平田の母[妻の母か?]が中野の井上病院に入院中、久志が平田を世田谷の志賀直哉邸に案内したのは最後の挨拶のようなものだったが、志賀夫妻や子供達に厚遇を受け、喜んで帰った。その記事は久志が編輯する『茶わん』(古美術と改題)1月号に書いた。
なお、平田には『近代心霊学』(日本心霊学会、大正14年10月)という著書があり、日本心霊学会(後に人文書院)との関係も気になるところである。

*1:この他、訃報欄があって、72名の学位称号、氏名、卒業年次、住所又は職名、逝去年月日が掲載されている。